イタリア映画“Ieri, Oggi, Domani”は、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが出てくる、オムニバス・コメディ映画です。このブログも昨日(過去)のこと、今日(現在)のこと、明日(未来)のことを書いていきます。

2007年11月8日木曜日

彼岸花(其の三)

9月下旬に、父はとうとう帰らぬ人となった。

7月下旬に医師から
父はもう年は越せないだろうと宣告されていたが、
実際にそれが起ってみると途方にくれた。

ひとつの救いは、もう父はあの強い痛みに
耐えなくてもよいということだった。
痛みに苦しむ父の苦しそうな表情に
何もしてあげられないつらさがあった。

父が亡くなったのは丁度、お彼岸に入った日であった。
或る人は、お彼岸に亡くなる人は徳があるのだと云った。
その言葉に、少しは心が慰められるような気がした。

慶弔休暇が終り、一人暮らしのアパートに向かうため
私は車のハンドルを握っていた。
外ははとても美しく晴れわたっていた。
しかし、それに反して、私の心は曇っていた。
信号待ちで停車中に、ふいに何か赤いものが目に入った。

見ると、真っ赤な彼岸花が路傍のあちこちに咲いている。
彼岸花って、ほんとにお彼岸に咲くんだな、と考えながら、
鮮やかな赤い花を見ているうちに、
心の中で、或る変化が起こっていくのを感じた。
それは、心が静かに澄み渡っていくような感じだった。

父が亡くなってから、よく父は今頃どの辺りにいるんだろうと考えた。
仏教のことをよく知らない私は、
どのタイミングで三途の河を渡るのだろうと思ったりした。
親父ギャグの得意だった父のことだから、
きっと船頭にギャグを言ったに違いない。
そう思うと、可笑しくなった。

早いもので、明日は彼の満中陰である。
明日は、閻魔大王さまとご対面である。
うまく極楽に行けるように、閻魔様に交渉するんやで、お父ちゃん。
私も祈ってるから。
(終わり)


2007年11月4日日曜日

彼岸花(其の二)

その後、労働ビザの申請が間に合わなかったために
私はアメリカから帰国するに至った。
その約一週間後に、父の膀胱摘出の手術が行われた。
膀胱を全摘出し、小腸の一部を使って人工の膀胱を作るという
8時間もかかる大手術であった。

手術は成功に終わった。
糖尿の気があったため、傷口がふさがりにくく
思ったよりも術後の退院が遅れたが、
どこにも癌が転移していないとの医師の言葉にほっとした。
父は退院後に仕事にも復帰した。
「今までは本当に大変やったけど、
 これからは良くなるばかりやから。」と、私は父に言った。

4月から、私は地元を離れて、現在の会社で働き始めた。
癌が転移していたとの連絡を受けたのは
働き出して、2週間ほど後のことだった。
私は、転移していなかったという医師の言葉を思い出し
悔しいような気持ちになった。

抗がん剤治療、放射線治療を受けたにも拘わらず
父の病状は少しずつ、目に見えて悪化していった。
私は無邪気にも7月までは、
父は良くなるのではないかと信じていた。
本人も自分は元気になって家に帰ると言っていた。

「お父ちゃん、秋になったら、一緒に韓国行こう!
 私がご招待するから。」
「おお、それは悪いな。」
そう言いながら、楽しみにしている様子だった。
何回かアジアに行っている母と違い、
父は一度も海外に行ったことがなかったのである。
(続く)

2007年10月11日木曜日

彼岸花(其の一)

「お父ちゃんは、あと16回正月を迎えたら人生終わりだと思うんや。」

私は父の急な言葉に驚いた。
それまで、親は居て当たり前、親が死ぬなんて考えもしなかったからである。
それは、アメリカ留学から冬休みのため一時帰国していた正月でのこと。
大学生活もあと1セメスター(学期)を残すばかりであった。

「なんで、そんなこと言うん?あと16年たってもまだ82歳やで。
今の時代、まだまだ生きられるんやし
82歳言わんと、90か100まで生きるつもりでおったらええやん。」

その頃、父は健康だったから、
どうしてそんなことを急に言い出すのか理解できなかった。
人生の晩年の一年一年を大切に生るつもりだと
言いたかったのだろうかと無理やり解釈した。
しかし、何か釈然としないものが心に残った。

その1年後、父の膀胱に癌が見つかったと妹から連絡を受けた。
その頃、私はアメリカで働いていた。
私は慌てた。
どうしよう。
父は死ぬかもしれない。
まだ、親孝行なんて何にもしていない。
結婚だってしてないし、孫の顔さえ見せていないではないか。

焦った私は、付き合っていた彼氏に結婚しようと言った。
しかし、まだ彼は学生だったため、あっさりと断られた。
(続く)

2007年8月6日月曜日

スイカの思い出


昨日、スーパーに行くと、
スイカが一玉、980円で売っていたので迷わず購入した。
冷蔵庫が小さいため、いつもは我慢しているが、
今日ばかりは衝動的に買ってしまった。
子供の頃から、スイカには目がないのだ。

五年前の夏、韓国の蔚山にワールドカップサッカーの準々決勝戦を見に行った。
しつこくFIFAのサイトにアクセスし、執念でチケットを取ったのである。
試合の前日に蔚山に到着した。
関東在住の友人とはその日の夜、宿泊先の民宿で合流する予定だった。
友人より先に着いてしまい、暇だったので、一人で街をぶらぶらすることにした。

大きな橋を渡って、しばらく歩くと、露天市場に紛れ込んだ。
物珍しげに市場を見て回る。
野菜、魚、雑貨、服など、色々なものが路上で売られている。

しばらくして、びっくりするほど大きなスイカが売られているのを見つけた。
値段を見ると、なんとたったの5000ウオンである。
その当時の為替レートで計算すると、日本円でたったの500円ほどである。
まさにスイカ天国である。
その時ほど、韓国に永住したいと思ったことはない。

今でも、スイカを見ると、蔚山で見た大きなスイカと
5年前のあの熱かった夏を思い出すのである。

2007年8月4日土曜日

オポチュニティ・コスト


大学の授業で必修授業だったミクロ経済にはとても苦労した。
何も知らずに、特に難しいといわれるドクター・ペイジの授業を取っていた。
あとで聞くと、皆、彼の授業を取るのを避けていたとのこと。

一応、テキストはあったものの、彼の授業では扱う内容は
テキストに書かれていないものがほとんどだった。
授業で配られるプリントと、黒板に書かれることがすべて。

ちんぷんかんぷんでも、一応書き写す。
いや、実際、あまりの悪筆に何が書いてあるのか判読できない。
アルファベットに見えないのである。
仕方ないので、見える通りに書いてみる。
まるで、写生である。

それでも、抜群に頭の切れるチューターに
放課後何度も教えてもらったおかげで、
終わってみると、奇跡的にAの成績をもらえた。
そんなわけで、必死に勉強したミクロ経済であるが、
いまとなっては、よく覚えてない。(苦笑)
しかし、ひとつだけ覚えているのが、Opportunity Costである。

日本語では機会費用と訳されているようである。
機会費用(きかいひよう opportunity cost)とは、
選択されなかった選択肢のうちで最善の価値のことである。
逸失利益とも呼ばれる。

難しそうに聞こえるが、なんのことはない、至って簡単である。
たとえば、Aは大学に進学した。就職する道もあったのにである。
この場合のOpportunity Costは、
働くことによって得られたと考えられる利益である。

もっと卑近な例で言うと、
フレンチレストランに行ってしまうと、
よっぽどの大食漢でないかぎり、
おいしい中華料理を食べに行く機会を逃してしまう。
この場合のOpportunity Costはおいしい中華料理である。

人生は選択の連続である。
何かを得ることで、何かを失っている。
それでも、いつも自分が行った選択は、
最良の選択だったと信じたい。

最近、恋愛について、Opportunity Costを考えてしまうわけで。。。

2007年7月2日月曜日

ブログ開設しました

久しぶりに文章が書きたくなったので、ブログを開設することにしました。
内容は過去、現在、未来について。
過去については、ものすごく昔のことを書くこともあります。
どうぞ読んでやってください。

Saint-Ex